本当の美とは何か。 美の本質を伝える人気連載コラム。
9月の上旬に京都の仏教会が主催され日本航空が後援されている「音舞台」に招待され食事等を含めて久しぶりに初秋の京都を堪能させていただきました。これは毎年この時期に京都のお寺を舞台に国内外の有名アーティストによる演奏等がなされるという大変に贅沢なものですが、今年は、なんと金閣寺を舞台に開催されました。初秋の夜にライトアップされた金閣寺の美しさは何ものにも替え難い別世界のもののようでした。有難いことに翌朝さらに銀閣寺をご案内いただくという機会にも恵まれました。金閣寺と銀閣寺という日本を代表するお寺を立て続けに堪能するという喜び以上に 夜間にライトアップされ眩いほどに光り輝く金閣と早朝の人気のない銀閣の対比に何か思考が停止する程の衝撃がありました。そしてご案内いただいたご住職の「銀閣寺が相当傷んでしまって修復を考えているのですが、その建造を行った足利義政候が行おうとしたように銀箔を張り文字通りの銀閣にするのか、義政候が亡くなられることにより中断された時の銀箔を施す前の黒の漆塗りの状態にまで修復するのか今盛んに議論をしています。ただどちらにしても それではわびさびでは無くなってしまうのではないかという議論もありますし。」というお話がとても印象的でしばらく頭から離れませんでした。
わびさびという言葉が現代使われているわびしいさびしいという意味合いとは異なるということは概念的には理解しているつもりではありましたが いわば歴史上わびさびの代表ともいえる銀閣寺が本来は銀箔を施される予定であったことを改めて思い起こしその姿をイメージしてみたときに何とはなしに潜在的にイメージしていた自分自身のわびさびのイメージが如何に間違っていたのかを強烈に思い知らされたような気がしたのです。銀色に輝く銀閣寺のなんとモダンで美しいことか・・・・。なんとしても銀色に輝く銀閣寺をこの目でみてみたい。それからずっとそう思うようになりました。
歴史的な遺物というのは当然のことですが色落ちしあるいは朽ち落ちて それが作られた当時のものとは大きく異なるものでしょう。しかし恥ずかしいことに私の中ではその色落ちし朽ちた銀閣とわびさびという言葉の響きが妙に合致してしまっていたように思います。そしてこれはご住職が言われたように私だけではないのかも知れません。特に戦争中と戦後間もないころの歴史的に最も貧しさに耐えなければならなかった日本人にとってわびさびという価値は時に貧しさを正当化するために使われたりしたこともあったのかも知れない。そんな風にも考えたりしたのです。
それから2ヶ月間程色々思考を巡らせた末に私なりにひとつの結論を見出すこととなりました。金閣寺と銀閣寺を比較し改めてわびさびを考えたときその本質は「つつましさ」ということにあるのではないかということです。そしてつつましさに美を見出すということの背景にある精神的な豊かさということに改めて深く感じ入ることとなりました。なんとやさしさと思いやりに満ち溢れ 奥ゆかしく豊かなものであることか。そう改めて思ったのです。それは貧しさやうらぶれたものとは対極の究極の豊かさと云うべきものであるといえるでしょう。私には銀色に光り輝く銀閣寺を再興することが日本文化の再興につながるようにとさえも思えるのです。