「あの人、老けたと思わない?」
「ほんと、老けちゃった」
「どうしたんだろう」
そんなことをカゲで囁かれているとしたら、どうだろう。
世間は"やむを得ない衰え"や"順当な衰え"に対しては何も言わない。でも、目に見える"老け"に対しては容赦がないのだ。なぜなら"老け"は避けられるから。
人は宿命的に歳をとっていく。これはもう、誰も避けられないこと。けれど"老けること"は避けられる。"老け"は防ごうと思えばいくらでも防げるものだからなのだ。
しばらく会わない間に、目もとにシワが何本か刻まれたとしても、世間はそれを見て、「あの人、老けちゃったね」とは言わない。しかし、顔の表情に"やつれ"のような疲労感が見えたら、世間は"老け"をしきりに噂する。「一体どうしたのだろう」とよけいな詮索をするのは、"老け"には必ず“別の原因"がダブって見えるからなのだ。
生活に疲れているのじゃないか? 何かしら不幸なことがあるのじゃないか? 言ってみれば、宿命的な衰えとは関係のないところで、私生活に若さを奪う原因が潜んでいるのを女は知っている。 問題は、そうした"別の原因"に対し、負けてしまっていることなのだ。せっかくの若さやキレイを無駄にしてしまっていることに、同世代は無情を感じる。どんなネガティブ要素があっても、女の見た目はそういうことに負けてはいけないと、女はみんな思っているから、それをこっそり糾弾したくなるのだ。自分自身への戒めのためにも。
背すじがのびていなかったり、ヒザが曲がっていたり、服が着くずれしていたり、何となく元気がなかったり、口角が下がっていたり、目に力がなかったり、化粧くずれしていたり、そういうことはすべて"老け感"につながる。でもすべては意識だけで充分に防げるものばかり。"老け"はその気になれば、その場で解消できるのに、みすみす"老け"をいっぱいまとってしまっている人は、ひたすらもったいない。自分を客観的に見つめる目さえもっていれば、すぐに解消できることなのに。
とても象徴的なのが、大人の女は、メイクが薄すぎても、濃すぎても、どっちにしろ老けて見えてしまうということ。薄すぎると、年齢がナマナマしく透け出てきてしまうし、逆に濃すぎると、厚いカバー膜が年齢を逆に強調してしまうからなのだ。
あくまでも客観的な目とバランス感覚をもたないと"ちょうどいい、老けないメイク"はできないのだ。ひとりよがりで、自分を客観的に見られなくなっていることそれ自体が老けなのだから。
"老け"は"衰え"ではない。あくまで心のスキ。すっと背すじをのばして、ヒールのある靴を履いて、"ちょうどいいメイク"をして、口角をキュッとあげて、澄んだ目で生き生きと挨拶をすれば、誰にもそんなカゲ口は言わせない。だから老けない女は、一生老けないのである。
齋藤薫
Kaoru Saito
女性誌編集者を経て独立。女性誌において多数の連載エッセイを持つ他、美容記事の企画、化粧品の開発・アドバイザーなど幅広く活躍。『Yahoo!ニュース「個人」』でコラムを執筆中。新著『大人の女よ!もっと攻めなさい』(集英社インターナショナル)他、『“一生美人”力 人生の質が高まる108の気づき』(朝日新聞出版)、『されど“服”で人生は変わる』(講談社)など著書多数。